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食とクライミング

寺倉 力 病を克服したトップクライマーの食と生活
「クライミングは身体で表現するアート」と語る倉上。知覚を磨き、感覚を研ぎ澄ませて岩と対峙する。それは食に対する姿勢も同じだと言う。 Photo: 萩原 悟
心と身体のリカバリーにはプラントベースの食生活が効果的

パタゴニアのクライミング・アンバサダーである倉上慶大は、名実ともに日本屈指のトップクライマーである。2015年秋の瑞牆山十一面岩「モアイフェース」(山梨県)での鮮烈な初登攀で実質的にデビューを放って以来、これまで幾度となく不可能視されてきたルートを初登し、その都度、硬派なクライミングコミュニティを驚かせてきた。

 

何十年ものあいだ登攀不可能視されてきた瑞牆山十一面岩正面壁、通称「モアイフェース」に3か月間を要して新ルート「千日の瑠璃」を開拓した倉上慶大。そのルートは彼の開拓スタイルを含め、硬派なクライミング界が諸手を挙げて賞賛した。2015年10月

そんな倉上の食生活は、菜食を基本としたプラントベースが中心だ。肉体と精神を酷使するトップクライマーにはリカバリーがとても大切で、それには植物性中心の食生活が非常に効果的なのだという。

「アスリートはトレーニングと真剣に向き合います。体を痛めつけることを苦にしない。でも、体のリカバリーに対してはどうでしょう。じつは僕自身、かなり無頓着でした。たとえば、手軽なNCAA(必須アミノ酸)やプロテインのようなサプリメントを摂ってなんとなく満足していた。けれど、心臓病の発作で倒れたのをきっかけに、食に対する意識が大きく転換しました」

体が欲した食べ物を口にすると、体全体にしみわたるような感覚を覚えるという倉上慶大。瑞牆山のとある岩塔のピークにて。 Photo: Hanako Kurakami
ある日突然、心臓発作で意識を失った

倉上が心臓発作で倒れたのは2021年秋のこと。その1年ほど前から予兆はあったが、救急搬送中に蘇生するまで心肺停止の状態が20分ほど続き、命を落としていてもおかしくないレベルだった。集中治療室に運ばれ、「運動誘発型の冠攣縮(かんれんしゅく)性狭心症」と診断された。

完治が難しい重度の心臓病で、この先突然死に至る可能性もあった。しかも「運動誘発型」という症状は非常にめずらしいケースで、医学的にもまだ完全に解明されたとはいえない症例だった。サードオピニオンまで受診したが結論が覆ることなく、どの医師の見立ても「アスリートとしての復帰は困難」というものだった。

こちらも長年にわたって挑戦者を跳ね返しつづけた小川山(長野県)マラ岩西面に、頂上まで貫く初のライン「Pass it on」を開拓。このときの登攀成功翌日から心臓病の症状がはじまり、翌秋、発作で倒れることになる。2020年11月。 Photo: 鈴木 岳美

倉上の症例は非常に少なく、医学的にも解明されておらず、自分で解決しなければという意識が働いた。藁にもすがる思いで彼は多くの文献に当たり、いろいろなことを試すようになる。

「心臓病の権威といわれるアメリカ人医師が書いた『血管を甦らせる食事』という本に出会ったんです。心臓病は治らないと言われているんですが、その本には心臓病は自然療法で治ると書いてある。そのためにはビーガンかつオイルフリーを徹底することが大事であると。かなりきつかったですが、3か月間徹底的に続けたら、目に見えて良くなっていったんです」

この高度にして、途中の支点はわずかに1本。過度の緊張感を強いられるリスキーなクライミングを続けた結果、自律神経に支障をきたし狭心症につながったという仮説。 Photo: Chris Prescott
動いて、食べて、データを計測

その頃には日常的なトレーニングも再開していた倉上は、体のリカバリーを強く意識した有酸素運動を新たに取り入れながら、プラントベースの食生活と有酸素運動の二輪で奇跡的な回復を遂げていく。

「トレーニングの後に何を食べたかで、リカバリーの早さを比較してみました。動物性たんぱく質、サプリメント、プラントベースの3つ。数値で表せないから感覚的になってしまうのですが、やはり植物性が圧倒的に早かった。でも、これにはある程度、科学的なエビデンスもあります。肉体のリカバリーには血中の一酸化窒素合成酵素の働きが重要なのですが、その生成プロセスがうまく働くようなんです」

見かけによらず、倉上は科学的思考に長けた人物である。大学で物理学に傾倒するあまり、大好きなクライミングを半年間休止してまで大学院に進み、物性物理学を研究して修士課程を修了している。

退院後の食生活を植物性中心プラス、オイルフリーに徹して3か月。目に見えた回復を実感し、ボルダリングの高難度課題も登れるまでになった。 Photo: 鈴木 岳美

心臓発作で倒れてから1年以上が経つが、現在では高難度のボルダリングやフリークライミングで多くの成果を挙げるほどの回復を見せている。食生活の面では、肉や魚、卵や乳製品を遠ざけるビーガンに徹しているわけではなく、必要に応じて動物性の食品も摂るようにしているという。

「僕はアスリートなので、攻めの姿勢で岩壁に挑む日があります。動きつづけるためのATP(エネルギー)を生成するには脂質が必要ですが、植物性だけでそれをまかなうのは厳しいので、攻める前日は動物性脂肪を摂り、帰ってきたら野菜プラス、オイルフリーで弱った体をリカバリーするといったように、行動によってフレキシブルに分けています。また最近では、心拍数に加えてストレスレベルまで測れるリストウォッチを使っていて、効果てきめんです。毎日のデータ的裏付けを得て、ますます実感しているところです」
 

プラントベースの食生活を登山活動に持ち込むことは容易ではない。何種類ものフリーズドライの野菜で作られているプロビジョンズ製品に助けられているという。 Photo: Hanako Kurakami
体が欲する食べ物に耳を傾けること

病気や健康、食事といったテーマは、代替医療や似非科学が入り込みやすい分野である。「これが効く」といった偏った言い伝えや、科学的根拠の希薄な説を情緒的に信じてしまうこと。

健康と食については、根拠や対象があいまいなまま「これが効く」といった情報が氾濫している。

「僕も気になっている点なのですが、一種の思考停止ですよね。おいしくはないけど良いと評判だから食べる。誰かが良いと言っているからという理由だけなら、ナチュラルなものであっても、選択するときの思考でいえばプロテインと同じなんですよね。僕は自分で考えて、自分で感じて、体が欲するものを食べたい。それが感じられないものは、人がどんなに良いというものでも、自分にとっては毒になると思っています」

自分の体が欲する食べ物に耳を傾けることが大事だと彼は強調する。心臓発作で倒れて集中治療室で過ごした5日間、なぜかひたすら野菜を欲していたという。

「極度に体がダメージを受けたときって、感覚的に研ぎ澄まされてくるのかもしれません。退院した直後は、そのへんの緩やかな坂道を登っただけでうずくまってしまうぐらいでした。そんな弱り切っていたときに、自分が食べたいものにじっと耳を傾けて、そうして食べたのが野菜だったのです。それからは心臓病を治そうとプラントベースに切り替えたのですが、不思議なことにあのとき病院のなかで野菜を食べたいなと思ったあの感覚が、いまでも残っているんですよ」

体の欲する声に耳を傾ける。そして今はアンテナをもっと敏感にして食物を摂ろうと心がけている。その結果、味覚はどんどん鋭敏になっていくという。

「ジャンクフードには手が伸びなくなりました。カップラーメンを食べてみようとしたこともありますが、だめでしたね。パフォーマンスに影響しそうで体が受け付けなかった。でも、逆に同じ野菜でも産地による味の違いだったり、湧き水のおいしさの違いだったりを如実に感じるようになりました」

自身が健康になることが環境問題の改善につながる

感覚が鋭敏になり、自身が健康になる。引いてはそれが環境問題の改善にもつながると倉上は考える。キーとなるのは「連続性」。もともと環境というものは連続するもので、そのサイクルを断続的にしてしまったことに人間の一番の問題がある。その連続性を取り戻せば、環境も人間も健康であり続けられるはずだと。

「たとえば、おいしい酒作りをするために、田んぼから作り直す酒蔵があります。生態系を元に戻すところからはじめるというのは、まさしく環境の連続性だと思うんです。感覚が敏感になって、体にいいもの、自分自身が健康になるものを選び、健康がずっと続くことを選択する。結局のところ、それが環境改善につながるのではないでしょうか。でも、そのシンプルなことをやるのが難しいのは理解しているつもりです」

クライミングもまた「連続性」の表現なのだと倉上はいう。岩に取り付き頂上へ到達するプロセスであり、コアなクライミング文化も歴史のうえに成り立っている。そうした物理的にも歴史的も連続性を感じられるクライミングなのだと彼は考えている。

1980年代に始まった小川山開拓の長い歴史の上に、自分が新たなルートを拓き、そして未来のクライマーへの課題も残した。ゆえにルートには「Pass it on」と命名。クライミングの連続性は豊かな文化の証である。 Photo: 鈴木 岳美
クライミングを通して得た豊かさを伝えていきたい

多くの人がそうであったように、コロナ禍のなかで倉上は大いに考え、悩んだという。この非常事態において、果たして自分が取り組んでいるクライミングはなんの役に立つのだろうかと。その答えはいまなお結論が出たわけではないが、大きな試練と対峙したときにポジティブになれたのは、間違いなくクライミングのお陰だった。

「体ひとつで登るフリークライミングは、自分の身体で表現するアートだと思っています。さらに、そこをどう登るかという哲学も出てくる。身体芸術と哲学が両立し、しかも自然のなかでそれができる。そうしたクライミングの豊かさを人に伝えることなら、自分にできるのではないかと。人生を豊かにするひとつの手段として、クライミングは魅力的な選択肢だということを」

行動食のお気に入りは、登山者やクライマーに人気の「RO チリ・マンゴー」 Photo: Yohei Nomiyama

倉上の心臓病は現在90%以上回復しているが、残念ながら完治にはいたっていない。リスクと向き合いながら生きるという覚悟は、想像を絶するものがある。それでも前を向いていられるのは、クライミングから得たなにかにほかならない。

「完治することはないかもしれない。でも、それは自分にとってのギフトだと捉えています。気づきを与えてくれた試練であり、きっかけだから。まさにクライミングと同じなんです。難題に対峙したときに、自分はどう取り組むか。そのすべてを僕はクライミングから学んできました。クライミングと出会って本当に良かった。いま、生きているなかでそれが表現できるのって、なんて幸せなことなのだろうと思います」

 

2022年12月18日にパタゴニア プロビジョンズが開催した食についてのトークセッションに、ゲストとしてお越しいただいた倉上慶大さんのお話の内容をもとに構成しました。

パタゴニア プロビジョンズ・トークセッション
「食×アスリート」ゲスト:倉上慶大

寺倉 力
寺倉 力は編集者でありライターでもある。『Fall Line』誌では創刊以来編集長を務め、『PEAKS』誌のインタビュー連載「Because it is there…」は100回目を超えており、どちらもまだまだ続く